「ブツけていいから、速くしろ!!」
お客様にそう言われたタクシーの乗務員、大橋利也(仮名)は流石に呆れた。今度ばかりは、思わずサジを投げそうになった。
最初、このお客様、上馬交差点付近の道端を歩いていて、遠くからでも「タクシーをご利用になるな」と大橋利也には分かった。しかも、お急ぎのご様子。空車で走っていた大橋利也のタクシーが見のがす筈も無い。
すかさず、側に車両を寄せ、停車するより先に安全確認した上でドアを開く。タクシーの後部座席に滑り込んで来たそのお客様は、携帯電話で何か慌ただしく話をしながらも、乗務員に「急げ!!渋谷!!」と短く指示する。
お急ぎのお客様が大好きな、大橋利也は「はいっ!!お急ぎで渋谷ですね!!かしこまりましたっ!!」と歯切れ良く返事をする。その台詞が言い終わっていない内に、既にドアを閉めて走り始めている。
グイグイと一般車をかわして追い越しながらも、お客様の携帯電話での話の合間に確認をする。
「渋谷のどの辺りへ行けばよろしいですか?」大橋利也がたずねると、「井の頭線の入口だ。知ってるだろ!?」と、お客様は答えたが、井の頭線の入口は二ケ所ある。
「はい。井の頭線の入口は二ケ所あると思うのですが、どちら側へ?」大橋利也が再度たずねると「井の頭線の入口だよ!!知らないのか!?」とお客様は少々苛立つ。大橋利也は「いえ、知っていますが、二ケ所ありますよね?」と答えると、お客様は言う。「井の頭線の入口って言ったらハチ公前に決まってんだろ!!」
大橋利也は心の中でつぶやく。「はぁ? ハチ公前ぇ? 井の頭線の入口だろ? 混乱してるんじゃないのか?
ヤバそうだなぁ。」そう思いながらも、「ハチ公側の、井の頭線の入口の所へ行けば、よろしいのですね?」と念を押す。
「そうだよ!!何でもいいから急げよ!!」とお客様は煽る。
そんな会話をしながらも、大橋利也の運転するタクシーは、グイグイと一般車をかわして追い越して行く。途中、二度三度と煽られる度にペースは加速して行く。しかし、三宿の交差点に差し掛かった所で勢いが鈍った。渋滞である。その先の左端車線には路上駐車車両が殆ど隙間なく並んでいて、これ以上追い越し様も無い。それでも隙を逃さぬ様、周りの動き、特に前方数十メータの範囲の車両の動きを注視していた。
その時である。お客様の口から信じられない様な台詞が出た。「ブツけていいから、速くしろ!!」
大橋利也は流石に呆れた。今度ばかりは、思わずサジを投げそうになった。「マトモじゃないんじゃないか?」と心の中でつぶやく。
先程までのお客様の携帯電話での話が聞こえていたので、どれ程緊迫した状態なのかは、大橋利也にも分かっていた。ここまで、周りの交通の流れに対して、倍近いペースで走って来た。制限速度50kmにも関わらず、時速70km程で二車線移動もして、いきなり十数センチ程まで近付かれて、驚いた他車が急ブレーキを踏んだ程だ。「もっと急げ」を通り越して「ブツけていいから、速くしろ!!」と言うのだ。
このお客様がマトモではないのだとしたら、下手な事を言えば逆効果である。
「お客様は非常にお急ぎなのですよね。本当にブツけてしまったら、かえって時間がかかってしまいますよ。それより、隙あらば、無理矢理ねじ込んでいった方が少しでも早く着けると思いますが。」そう言った大橋利也の“ヤル気”が分かってか、そのお客様も少し冷静になった様子である。「抜け道とかないの?」そう聞くお客様にはつい今し方までの殺気を感じられない。「ええ、申し訳有りませんが、ここから井の頭線の入口まで行くのに、時間を短縮できる様な抜け道や迂回路は、この辺りにはないですよねぇ?」大橋利也は逆にたずねる。「何しろ、246で一直線ですからねぇ...」と続けると、そのお客様は大きな溜め息混じりに「頼むわ。ホントに...
一秒でも速くな。」とつぶやいた。「はい。隙あらば、ドン、ドン、ねじ込んで行きますから。」そう言いながら、大橋利也の運転するタクシーは隙を見せた他車の前にグイっと割り込んだ。
大橋の交差点手前まで続いた渋滞を抜けた大橋利也の運転するタクシーは、そこから一気に加速する。先程までのお客様とのやり取りがあるのだ。遠慮なくベタ踏みでアクセルペダルを押さえ付ける。久し振りのエンジンの唸り声と加速Gを身体に感じながら、神泉町の交差点下アンダーパスに飛び込んで行く。幸い、アンダーパスを抜けた先では差程渋滞していなかった。南平台の交差点での左方からの合流の為、出口付近の流れは悪かったが、その隙間にねじ込んで行く。そして下り坂で、一気に加速しながらガンガン一般車をかわして追い越して行く。
「しまった!!」大橋利也の眼前に迫る渋谷駅西口の交差点が赤に変わる。スピードの乗っていた大橋利也のタクシーは僅かにタイヤが悲鳴を上げる。止まって止まれない事もなかったが、その交差点を左折すれば、目的地は目と鼻の先である。「お客様!!信号無視しますよ!!掴まってて下さい!!」控え目にそう叫ぶと、大橋利也は周りの車の動きに注意を払いながら、赤信号になったばかりの交差点に飛び込んで行く。タイヤが悲鳴を上げ過ぎない様にコントロールしながら、東急プラザ前に滑り込んだ。
東急プラザ前の赤信号で、何台かの一般車が停止している。その後ろに停止するや否や、「お客様、目的地はそこですよね!?」そう声を掛けながらお客様の方に振り向いた。一瞬の沈黙。
「しまった!!ヤリ過ぎたか!?」大橋利也がそう思うのとは裏腹に、そのお客様は思い出した様にサイフを取り出すと、「ここでいい。」と言って料金を支払い、降り際に「偉いな。お前。」と言い残して、釣り銭も受け取らずに人込みの中へと足早に消えて行った。
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